日大アメフト問題から考える、日本の部活問題

日大アメフト問題

日大のアメフト部の学生が関西学院大学のQBに反則タックルをした問題について連日報道がなされており、昨日は学生本人が謝罪会見を行なっていた。youtubeなどのコメント欄をみていると、同情する声、褒め称える声、一方で「20歳を越えてるんだから自己責任」という声も多いように思う。しかし、これは多くの人がわかっているように学生本人の資質ではなく、大学の、もしくは伝統的な体育会系組織の構造的な問題と捉えた方が良い。その点で言えば、私自身高校生まで野球をしていたため、この「伝統的体育会系組織の構造的問題」にぶつかる場面を多く経験してきた。そのため、この問題を他人事として捉えることはできなかった。

この構造的な問題に関して、「そもそも体育会系組織とはどういうものか」「体育教師問題」「運動部理論の再生産」という3つの切り口から論じたいと思う。

体育会系組織・運動部組織

まず、体育会系組織にとって先輩は絶対に逆らえない存在であり、監督はそれを超える教祖的な存在である。監督の一挙手一投足、発言、顔色、その全てが部員の「考え方」にまで派生し、監督の考えていることが部員に浸透し、部員の行動も監督の趣旨に従うものになる。それはまるで一種の宗教であり、教祖に反する行動を取ることはその組織内での死を意味している。

例えば今回宮川選手に対して、「やる気がない」というエビデンス不詳なコメントで監督・コーチは選手を徐々に排除していった。こういった論理はどのような体育会系組織でもありうる話だろう。例えば私は高校生の頃、決してチーム内で野球がうまい方ではなかった。うまい方ではなかったために「工夫して」練習をする必要があると思い(人と同じことやってても一生勝てないですよね)、自ら調べた内容に基づき、チームの練習メニューと合わせて取り組んでいることが多くあった。しかし、それをみた監督やコーチのコメントはこうだった。「指示に従えないのか!やる気がないなら帰れ!」

言っておくがやる気は人一倍あったからこそ工夫をしようという気持ちが生まれている。しかし、チーム内でパワーを持っていなかった私が「工夫する」ことはある種監督への反抗のように映ってしまい、結果チームミーティングでまで「彼のような練習態度、やる気のなさでは一生試合にはでられない」と言われてしまうようになった。

このままでは一生試合に出してもらえないと考えた私は、毎朝かなり早い時間に学校に行き、監督の車が止まる近くの鏡がある場所で毎日素振りをすることでアピールしようとした。本当は他にも方法はあったはずなのだが、とにかく監督に練習する姿をみてもらい、「やる気のある人間」と思ってもらえなければ野球人生が終わってしまう、という考えから、アピールを続けていた。例えばの話だが、こうした追い込まれた精神状態の時に今回のアメフトであったような「相手選手を潰すためのスライディングをかましてこい」と言われたら断れたかどうかは定かではない。私はその点ではかなり親にすぐ相談するタイプだったので、おそらく「そんなことするくらいなら野球などやめて勉強しなさい」と父に言われ部活をやめていたような気がするが、今回の学生は日本代表に選ばれるほどの学生で、大学アメフトまで取り組んだ選手である。

つまり彼にとってアメフトはすなわち人生と言ってもいいほどの存在だったのではないかと推察できる。そんな彼が「タックルをしなければアメフトを続けられない」と思いつめ、自分の将来のためと考え、タックルをしてしまったのは十分に考えられることだ。もちろん相手の選手が怪我をしていること、一歩間違えれば後遺症が残るレベルの怪我であるし、まだ本当になんの後遺症も残らないとは言えないことから考えると「彼は悪くなかった」と簡単に言える問題ではないが、状況から考えて「やらざるを得なかった」ということがかなり見えてくる気がする。

体育教師問題と部活

そう考えると問題は体育会系組織の人間が大学組織のナンバー2にまでのし上がり、人事権をもち、今回の騒動から逃げ回っているという部分である。ここに関して私は「職員室で一番偉いの体育教師問題」「体育教師が日本の教育をぶち壊している問題」について論じたい。

学校の職員室に行くとかなりの確率で体育教師が一番権力を持っている場合が多い。これは特に偏差値がそこまで高くない学校から中堅くらいの学校に多い。やはりトップ進学校ではその組織のトップもある程度「勉強して」その権威にのし上がっているケースが多いものの、前者の偏差値がそこまで高くない場合に関しては「生活指導」「学校の規律」を学生に守らせるのにどれくらいパワーを持てているか=職員室でのパワー、になっていると私は考察している。

中学・高校時代、靴下、スカート、シャツ・・・それらの指導をしていたのは誰だったのか。大抵の場合体育教師ではなかっただろうか?そしてたちが悪いことにこう言った体育教師というのはもともと「部活の顧問になりたい」という目的で教員になっている場合が多いのだ。本来教員の仕事で部活が占める割合はそう高くないはず。徹底した授業準備とそれに基づくハイクオリティな授業。それが彼らのメインのタスクであるはずなのだが、最初から「顧問になりたい」という動機でなっている体育教師はかなり多いと私は考えている。

そしてそんな彼らの問題が、彼ら自身が「運動部で勝ち組だった人たちである」ということだ。運動部で勝ち組だった人間というのは何も「試合に出場できる」とか「大活躍した」とかそういうレベルの話ではなく、「教祖である監督にどれくらい好かれ、その教祖の元でどれだけメンバーとして当該宗教のために奔走したか」が充実度になっているということである。例えばだが、私のように実力は足りず、怪我をして、監督にも嫌われ、試合にも出ていない人間が野球部の顧問をやりたくなるだろうか?絶対にならない。恨んでも恨みきれないほどの思い出だからだ。顧問になりたい人間というのは、運動部の謎論理の中で生き、その謎論理でエビデンスはなく生き残り、監督に愛され、数年間を過ごし、卒業したただただ稀有な存在なのだ。そして、その構造的な異質さに疑問を抱かず大人になり、体育教師になり、再び顧問になってしまった。

彼らがもう一度同じような伝統的体育会系組織を生み出すのは目に見えている。こうして同じような理不尽な運動部組織が再び生まれてしまい、戦後70年間日本の運動部は理不尽がまかり通る謎の組織のままなのである。

私は今回の日大アメフト問題を日大だけの問題とは見ていない。運動部の謎理論で生きてきた人間が謎理論のまま権力を握り、その謎理論を再び振りかざして次の世代の学生を苦しめてしまう。これまで日本の運動部が繰り返し続けてきた見えない問題がただ露呈してしまっただけなのだと思う。今回の問題がただの個人の問題や、日大アメフト部、日大、の問題だけではなく、広範な運動部のあり方に派生していくことを私は願ってやまない。

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