社会学考察:努力量すらも社会階層の影響を受けているのか?: 苅谷剛彦「学習時間の研究」から

社会学考察:今回の記事の目次

  1. 能力は努力に起因するものだと思いたい
  2. その努力すらもプログラムされていたら?
  3. これまでの研究
  4. リサーチクエスチョンと仮説(抜粋)
  5. 調査・分析方法
  6. 分析とその結果
  7. 反証と残る疑問点

社会学考察:能力は努力に起因するものだと思いたい

私たちは自分の能力が基本的に努力に起因するものだと思いたい生き物だと思うんです。一方で、なんとなくではあるが遺伝的な特性だったりっていうのはおそらくみんな受け入れてる。勉強すごく得意な人は多分幼稚園や保育園から光るものがあったはずだし。

社会学考察:その努力すらもプログラムされていたら?

遺伝による差異は認められるけど、それでも「努力」で成り上がってきたと結構みんな思っている。が、苅谷剛彦「学習時間の研究」によると、その努力量(この論文中では努力量を「学校外学習時間」として定義)すらも出身の社会階層によってプログラムされているみたいなのだ。しかもそれが近年拡大していると。

社会学考察:これまでの研究

今回の論文ではメリトクラシーの問題点について論じている。そもそもメリトクラシーとは何か。

日本の教育社会学研究においてしばしば言及されるメリトクラシーの定式によれば,メリットとは,能力と努力という二つの構成要素からなる。(中略)社会的選抜において,個人の属性よりも,能力と努力からなるメリットが重視されることをもって,業績原理が支配的であるとみなし,そうした社会を「メリトクラシー」と呼ぶ。

つまり個人の生まれ持った能力と努力によって学歴やら職業は決まるから平等じゃ!!という考え方のこと。でも過去の研究ではこの能力(文脈的には「教育成果」)っていうのは出身の社会階層にだいぶ影響を受けることがわかっている。でもこれまでの研究ではメリトクラシーもう一つのファクターである「努力」に対する議論が抜け落ちていた。なので、苅谷先生はここに目をつけたと。

社会学考察:リサーチクエスチョンと仮説(抜粋)

全部を載せても冗長なので重要そうなところだけを紹介したい。1つ目のRQは「出身階層によって努力量に差は存在するのか?」2つ目のRQが「出身階層による努力量の差は拡大しているか?」。これらに対する仮説の一つ目が「階層が高いほど、学習に向けた努力の量も多い」、二つ目が「高校生の学習時間の階層差は拡大している」。

一つ目のRQと仮説については「まあそうかな」って感じかもしれないが二つ目は毛色が違う。誰しもが大学受験をするという時代より前なら、親の事業をつぐとかで出身階層ごとに勉強量に差が出るのは当然だった。しかし、全員が受験競争に加わるようになると一旦努力の階層差は縮まったはず。が、その後(苅谷氏が論文を書いた2000年頃)受験競争が緩和され、誰もが勉強に駆り立てられなくなり、学校からの後押しも減った結果、もともとあった階層差がより明らかになるのではないかというわけだ。

社会学考察:調査・分析方法

比較可能な二時点の高校生対象の質問紙データ。1979年と1997年に同一地区で同一高校に対して行った。この20年の間に学区制度の変更や私立中高一貫の進出などの外部変化は起きていないため二時点の差異は外部要因ではなく、時代による教育状況の変化と見做すことができる。方法は仮説の一つ目が平均値の比較、二つ目が学校外学習時間を従属変数とした重回帰分析を行う。

社会学考察:分析とその結果

まず一つ目の仮説に対する分析結果によると、親の職業や学歴により子供の学習時間は違いがあることがわかる。

仮説3に関してもグロスで見てみると、例えば、最大の数値を示す大卒の子供の学習時間とそれぞれの学歴の子供の学習時間の差は20年の間に大きくなっていることがわかる。つまり、全体の学習時間が落ち、階層間での学習時間の差異が広がったと言える。でもグロスの差だけでは他の要因を除外しきれないので(例えば入る高校のランクによる差かもしれない)、重回帰分析をしている。ここでBetaとは標準化偏回帰係数(標準化した回帰係数)である。

1979年時点では父職業も母学歴も有意ではないが、1997年には母親の学歴が統計的に有意に学習時間の差異を説明できている。

解釈として、そもそも高校ランクを入れたが、高校ランク自体、出身階層と強い関連がある。そうした高校ランクの差は学校外での学習時間を規定している(そもそも学習に力入れる高校に入ったら宿題たくさん出るし勉強せざるをえないよねということか)。79年の結果はこの出身階層を反映した高校ランクによって差が現れていたと言えて、なおかつ、高校ランクが高いところに入れば父親の職業や母の学歴が学校外学習時間に影響しない、つまり学校が階層の縮小を促すことができていた。

一方で、97年データでは高校ランクを入れたとしても、母親の学歴の高低によって学校外での学習時間が影響を受けていた。学校の促す階層の縮小化の力が弱まって、階層差が努力量に現れてしまったと言えるのではないか。

社会学考察:反証と残る疑問点

大学生になってから、社会人になってからの学問に向かう姿勢も高校生の学習時間のように階層差があるのかという点に疑問が残った。論文によると高校生までは親の影響下にあるために親の文化的遺産(文化資本)が子供の努力量に有意に影響を及ぼしているが、親の影響を離れた大学生・社会人にも適用できるのか。

ブルデューの”the forms of capital”(これについてはまた今度詳しくまとめます)の言及では文化資本(今回の論文の文脈でいうと「教育熱心さ」とも言える)というのは親や属する社会階層から「暗黙知的に」「身体に埋め込まれる形で」伝達されていくものだった。そう考えると、親元を離れてからも影響は残りそうだ。

一方で、ブルデューの議論では「能力」として文化資本は伝達されるが「努力の姿勢や量」が伝達されるとは明言がない。苅谷の議論でも「親が側にいる状況下での努力量」にしか言及されていない。となると、現状僕が読んだ論文の中では大人になってからの学ぶ姿勢が出身社会階層に起因するとは言えない。仮にこれを証明したいのであれば、社会人に調査をとり、例えば出身階層(市区町村レベル・当時の親の年収)・現在の土日の学習時間、などで分析をしてみる必要がありそうだ。

個人的な感想としては、「できない奴は頑張らなかったから」という当たり前のような言説にこの研究は違った視点をもたらしてくれたように思う。そもそも「努力したらできる」というのも一種のイデオロギーだと苅谷氏も言っていた。

「頑張らなかったから」は理由にならず「できない奴は頑張ってないんだけど、その背景には出身の社会階層があるよ」というように考えなくてはいけないのかもしれない。ゆとり教育の問題として学校外での時間が増えたことにより、経済的余力のある家庭、自宅での学習を促せる家庭、の子供とそうでない子供の差がより広がったという論考を前に見たことがあるが、その話に近いのかなとも思う。

データの取り扱いに対する疑念としては、高校ランクという変数についてである。高校ランクの取り方が中学時代の成績自己評価を元に3つに分けた、とあるがどういうロジックでやったのかよくわからない。加えて、2018年の今、4年生大学に進む女性も本当に多くなった。なので、今回のように学歴を教育年数で測るのは今後ナンセンスになってしまうような気がする。偏差値で区切るのも変だけど、何かしらの代替変数を考えなくてはいけない。

社会学調査の計量手法の難しさも学んだ論文だった。面白かった。

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